「意識的または無意識的に」~"Aまたはnot A"の表現~

意識的または無意識的に

「Aまたはnot A」とはつまり"全部"ということなのですが、こういう言い回しが必要になることがままあります。

私がたまに使うのは、「意識的または無意識的に」です。

  • (A)彼は、高校までで学ぶ程度の漢字は、既に小学生の時点で、意識的または無意識的にすべて身につけてしまっていたのだ

という例文などが考えられます。これを別の言い回しにしようとするとなかなか難しいのです。

  • (B)彼は、高校までで学ぶ程度の漢字は、既に小学生の時点ですべて身につけてしまっていたのだ

とすると、凡そ勉強熱心だから学習して身につけた、という印象になるのがわかるでしょうか。(A)での文意は、"一部は自然と身につき、一部は意識的に身に着けた"ということなので、文意が変わってしまったことになります。

似た言い回しとして、「Aであれnot Aであれ」とか「Aであるにせよないにせよ」などという言い方もありますね。

  • (C)彼は、高校までで学ぶ程度の漢字は、既に小学生の時点で、意識的であるにせよないにせよ、すべて身につけてしまっていたのだ

ん~……。なんか違います。これでは語り手が知らないというだけですね。

「Aまたはnot A」とは、一見すると変な、あるいは無駄な言い回しですが、意外にも置き換えのきかない表現に思います。

一部または全部

ほかにも、「一部または全部」というタイプの表現もありますね。

  • (D)費用については、国が事業の一部または全部を補助する

これは「意識的または無意識的に」とは異なって、全体集合を示していません。

先程の例は、元々カテゴリが{意識的/無意識的}と分かれており、言及しなければどちらかであると勝手に解釈されてしまうだろう部分に対して、その両方であることが強調する表現でした。

今、「一部または全部」という表現は、そもそもカテゴリが{なし/一部/全部}と分かれている中、一部と全部の両方であ(りう)ることを示したかったのです。

  • (E)費用については、国が事業の全てを補助しないということはない

(E)の表現は"ない"を否定しているので(D)と同じ部分を指しているのですが、ニュアンスが異なってしまっています。国はかなり消極的で、論理的にはありうるものの、"全部"が補助される可能性についてはほぼ無いと思われそうです。

こういう部分を見るに、言語は論理に基づくが、論理すなわち言語ではないのだ——と再認識させられます。

  • (F)費用については、国が事業の少なくとも一部を補助する

(F)のように、「少なくとも一部」などという言い方もありそうですね。ただ、余計なニュアンスを生みそうなところが気がかりです。(E)同様、マイナスイメージが濃厚です。難しいですね。

まどろっこしい表現にはなりますが、"Aまたはnot A"の形を使うと、ニュアンスの色をつけずに、より正確に意味を伝えることができそうです。