最近読んだ本の記録:『外套』『鼻』『初恋』
最近本読んでなくて危機感を覚えていますが、まあ薄いわりに読みづらいロシア文学を読んでたからかなとも思います。なんとか読み終わったのでメモ書きでもしとこうかな。
本腰入れて書いたら室生犀星のみたいに書きさしのまま永遠に続かないので、力を抜いて書きます。
『外套』/ゴーゴリ
ゴーゴリの代表作? ではないかと思います。貧しい下級役人が外套を買い替えるという、(本人にとっては)人生の一大事の顛末を書いたお話。
主人公の名前は——忘れてしまいました。というのも仕方なく、これは作者が「これから書く小人物のことはもう忘れてしかるべきだ、というか取り上げること自体がもはや異常なのである」という態度で書いているのです。これは独自の解釈ではない、作者がそう書いているのだから……しかし僕はもはやその原文をあまり確かめる気にならない。読み終わった本はすぐ級友に貸してしまったのだ。青空文庫を確かめたら、成程見覚えのある印象的な文があった。「いつ、どういう時に、彼が官庁に入ったのか、また
この物語は実に悲劇的な結末を迎えるのだが、作者は主人公に対していたく同情的な態度を示している。
誰からも庇護を受けず、誰からも尊重されず、誰にも興味を持たれずして、あのありふれた一匹の蠅をさえ見逃さずにピンでとめて顕微鏡下で点検する自然科学者の注意をすら惹かなかった人間――事務役人的な嘲笑にも甘んじて堪え忍び、何ひとつこれという事績も残さずして墓穴へ去りはしたけれど、たとえ生くる日の最期の
際 であったにもせよ、それでもともかく、外套という形で現われて、その哀れな生活を束 の間ながら活気づけてくれた輝かしい客に廻りあったと思うとたちまちにして、現世にあるあらゆる強者の頭上にも同じように襲いかかる、あの堪え難い不幸に圧しひしがれた人間は、ついに消え失せてしまったのである!
この分析の仕方であるとか、あるいは貧民に対する同情的態度とかいうのは、後の時代のロシア文学に非常に強い影響を与えているように思うが、しかし不思議なのはゴーゴリという人は一口に言えば右翼とでもいうべき人で、農奴解放とかに否定的態度を示していたそうだという点である。どうやら作者の貧窮生活が下敷きにあるらしいので、一種自伝的なところがあるからだろうか。
『鼻』/ゴーゴリ
ゴーゴリというと外套のほかには鼻しか知りません。そういえば芥川の鼻も読んだことがないですね。
こちらは鼻がなくなってしまった人のお話。奇妙すぎる。フィクションであるにはあるのだが、なんというか、なくなってしまった鼻がひとりで馬車に乗っているのを見つけるシーンとか、これは映像として思い浮かびづらく、文章だからこそ実現できるストーリーだと思う。
結局のところの感想は概ね外套と似たようなもので、普段の生活から少し派生した部分を描いた作品だというべきだろうか。藤子・F・不二雄が提唱した「SF(すこし・ふしぎ)」ではないけれども、日常の中で何かありえないイベントが起こる、それを通じて日常生活の本質に迫る、という仕組みがよく出来ている作品ではないかと思う。この時代のペテルブルクに暮らしたことがなくても、自然と生活が読み取れて没入できるのは秀逸だと思います。
『初恋』/ツルゲーネフ
なんなんでしょうこれ。名作として名高いけど、ふつうに性癖破壊作品じゃありませんか……? ロシア文学によくある総括パートがあるからなんとか読者は立ち直れるわけですが、これ、うーん、ネタバレになるから深くは突っ込まないけれど、隣の家の性癖破壊ドS没落貴族お姉さんがうにゃうにゃという話ですよね……。
これが情熱というものなのだ!……ちょっと考えると、たとえ
誰 の手であろうと……よしんばどんな可愛 らしい手であろうと、それでぴしりとやられたら、とても我慢 はなるまい、憤慨 せずにはいられまい! ところが、一旦 恋する身になると、どうやら平気でいられるものらしい。……それを俺 は……それを俺は……今の今まで思い違 えて……
ふむふむ。
さて、わたしもそうだったのだ。……ほんの
束 の間 たち現われたわたしの初恋 のまぼろしを、溜息 の一吐 き、うら悲しい感触 の一息吹 きをもって、見送るか見送らないかのあの頃 は、わたしはなんという希望に満ちていただろう! 何を待ちもうけていたことだろう! なんという豊かな未来を、心に描いていたことだろう!
しかも、わたしの期待したことのなかで、いったい何が実現しただろうか? 今、わたしの人生に夕べの影 がすでに射 し始めた時になってみると、あのみるみるうちに過ぎてしまった朝まだきの春の雷雨 の思い出ほどに、すがすがしくも懐 しいものが、ほかに何か残っているだろうか?
成程、とても現実離れした、まあもちろんあり得るといえばありうるのでしょうが、しかしながらほとんどの人が共感しないであろう狂気の恋愛沙汰を、しかも初恋を、かくして精緻に描写することを通して、普遍的な結論に辿り着いたというわけです。普遍に辿り着くためには一般では足りないのですから——。読後感はとても良いとはいえないけれど、どこかトルストイを読んだあとと同じような、世の無常と大きなものの存在を感じるところは好きになりました。
最後の最後に名前も登場しないような老婆が往生するシーンがあるけれど、ここで不思議といたく感動してしまったのは何故でしょう? あまりよく考えきれていないから、今日はここまでしか書きません。