はてなブログ・縦書きのサンプル(『幼年時代』書評)

 私が紹介した縦書きを実際に適用するとどうなるか、サンプルとして、先日書いた書評と同じ文章を貼っておこうと思います。

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 谷中のほうに"鮫の歯"という古書店があるが、営業時間は「昼頃から夕暮れまで」という。実に素晴らしい精神性である。江戸以前の人間と同じく、なんと絶対的な時刻でなく、太陽の運動によって「昼」の長さが決まるのだ。内装や雰囲気、本の種類が好みで何度か足を運んだのだが、どうもその気まぐれな営業時間と私の気の向くタイミングが合わない。

 実のところ、私がその店に足を踏み入れたのは、初めて通りかかった一度きりである。

 確かその日は冷たい長雨が降り続いており、凍える道中にふと見つけた明かりが"鮫の歯"だった。店内の懐かしく穏やかな、それでいて影も湛えているような雰囲気の中には、未だカヴァーの掛かっていない時代の岩波文庫が、小綺麗なフィルムに包装されて並んでいた。中でも特に、『或る少女の死まで』という、ドキッとする題名が私の心を惹いた。

 私のおぼろげな文学史の知識で、おそらくこれが室生犀星の自伝的小説であることは覚えていたが、室生犀星の育ちには全く知識がなかった。それどころか、凡そどの世代の人かもあやふやだった。しかしながら、古本というのは一期一会のものである。仮に他所でこの本に出会ったとしても、その本にはきっと小綺麗なフィルムは無いし、おそらく冬の雨の暗い日に感じた輝きもきっと目減りして見えるだろう。——そう逡巡して、購入したのが、二、三年前のことであった。

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 あれから何冊の本を読んだか記憶にないが、今夏積ん読を選っていたときに、彼日の感動と共に『或る少女の死まで』と再会した。ささやかな期待とともに頁を開くと、この本を貫く雪国独特の重苦しい空気は、不思議にもあの冬の雨の日と通ずるものがあった。

 他二篇とあった通り、本書は『幼年時代』『性に目覚める頃』『或る少女の死まで』の三作から成るが、順に幼少期、思春期、そして上京後の青年期を著した作品である。特に前二篇は時間的近さもあって内容にも密接な繋がりがあるが、テーマが異なる。本稿では、まず『幼年時代』について書く。

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 犀星の複雑な生い立ちが著されている。文章として特段に華があるわけではなく、どちらかというと随筆と伝記の中間のようなもので、淡々と事物が描写されるのだが、その中でちょっとした心の動きがしばしば述べられる。思うに、この構成自体が実に幼年時代らしいと思わされるのは、子どもはなかなか自分の感情を具に語らず、また当の本人にすらよく解っていないからだろうか。

 全体を通して家族の話であるが、その複雑さゆえ飽きることなく入り込んでゆける。生みの母も姉も、結局疎遠になってしまってそれきりのように書かれているのが、名状しがたい感情を掻き立てる。当時まだ幼い筆者には、一度離れてしまった人間とはもう二度と再会しがたいのである。それゆえに、生みの母との別れを悲しみ、過去を懐かしんでいた時期においても、一方で常に「父」や姉との別れを懼れているのが伝わってくる。現に姉は嫁ぎ、父はその先の死を見据えていた。幼少期に苦しい別れを繰り返した筆者の気持ちは想像を絶するが、しかしながら一度別れを経験した人間が、「守り」に入るような人間関係を構築していくことは、少しわかる。

 このような状況下だからこそ筆者は仏教に傾倒した、といえば明快に思えるかもしれない。しかし、作品中で筆者と仏教との出会いは至って自然に、しかもかなり無意識的に行われている。私は(少なくとも信仰心の篤い)仏教徒ではないので、この辺りの思想は想像しがたいのだが、宗教との出会い・信仰心の萌芽とは概ねこのようなものなのだろう、と思った。「父」との静かで素晴らしい関係性も、きっと仏様が導いて下さったのではなかろうか、とすら思わせる力がある。尤も、以後の二篇に彼の仏教的思想はなかなか垣間見えないのであるが——。

 私は一度読んで、三作の中でこの『幼年時代』が一番気に入った。素朴で不器用な少年が、複雑でつらい人間関係の中でも生きていく様子が、読んでいるとどこか懐かしいもののように感じられる。それに、起承転結が無いのが良い。特別な出来事が起こるわけではない生活を、偶々この紙面に収まるからというだけの理由で切り取ったかのようである。ドラマの主人公ではない、自分と同じような一人の人間の人生だからこそ、その表現にははっとさせられるものがあるのだ。

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