「取り付く島(✕暇)もない」はアクセントが原因ではないか

ふと思いついたのでメモしておきます。

「取り付く島もない」という言葉は読者諸賢ならご存知の通りよく「取り付くもない」と誤用されます。以前の記事でも書いたように私は誤用々々と騒ぎたくないのですが、歴史的正当性は「島」に軍配が上がります。

シとヒが混同されやすいから?

さて、これはなぜ「暇」と誤解されるようになったのか。意味にまつわる話を置いておくと、一つには、日本語において「シ」と「ヒ」が本来混同されやすいからというのがあります。私や私の親は東京方言を話すのですが、「消費者庁」や「東広島」「白鬚橋」ではほぼ必ずシとヒが混在します。これは東京方言の特徴でありますが、他地域でも散見される現象のようです。この詳細は別の機会に。

アクセントの問題?

そしてもう一つ思いついたのですが、アクセントの問題が考えられます。

アクセントを表すと、島:シマ\ 暇:ヒマ ̄ となります。(\は音の下がり目)

これは何を意味するかというと、単体では同じ発音ですが、後ろに「が」などの言葉が続いたとき、「島」なら「が」が低い音、「暇」なら「が」が高い音で発音されるということです。「島」のようなタイプを尾高、「暇」のタイプを平板と呼びます。

別の例では、「橋」が尾高、「端」が平板です。試しに「ハシ(橋・端)を通ってください」という文章を読んで見ればわかるでしょう。

ここで「取り付く島もない」のアクセントを書いてみると、あくまで成句でなく文章として読めば、

トリツ\ク シマ\モ ナイ\

となるはずです。

↓のサイトでもこう発音されています。

ja.forvo.com

※以下は[要出典]です。メモ書きなので。

一方で、どんどん慣用句として一体化が進むと、複合名詞のように中高化する傾向があるように思います。イメージとしては「イチゴ、ミルク」というときと、「イチゴミルク」というときの差のようなものです。

すると、

トリツク ̄ シマ\モ ナイ\

トリツク ̄ シマモ ̄ ナイ\

のように、平板化が進みます。上の例ではまだ「島」が尾高ですが、下のように「島」が平板化になってしまうこともあるのではないでしょうか(実際には私は下で発音することもあります)。

すると、シマ ̄という言葉は共通語では存在しませんから、発音の類推から「暇」と誤解されるようになった——のではないでしょうか。

……こんなことを思いついたのでメモしておきます。

キャッサバ/タロイモ/ヤムイモの単簡な区別法

地理を履修すると、ナイジェリアが生産一位の作物としてキャッサバ/ヤムイモ/タロイモなどを知ることになりますが、その区別はつかず、「なんかアフリカでよく食べる芋でしょ?」程度の認識に終始しがちです。

実際の定期試験などでどこまで役立つかはさておき、その簡単な区別法について言及します。

※調べて書いているものなので、間違いなどあればご指摘ください。

統計を区別しよう

まずは統計を見てみましょう。

キャッサバ ヤムイモ タロイモ
ナイジェリア 5483 ナイジェリア 4500 ナイジェリア 327
タイ 3002 ガーナ 712 中国 184
インドネシア 2344 コートジボワール 581 カメルーン 167
ブラジル 2325 ベナン 322 ガーナ 130
ガーナ 1652 エチオピア 145 パプアニューギニア 27
コンゴ民主 1468        
ベトナム 1021        
カンボジア 833        
インド 814        
アンゴラ 764        

(※数字は生産量/単位は万トン)

(二宮書店『データブック・オブ・ザ・ワールド2018』より)←古くてすみません

はい、こんな感じです。

特徴としては、

キャッサバ ヤムイモ タロイモ
生産量が多い ナイジェリアが高比率 生産量が少ない
東南アジアとアフリカ アフリカ中心 アフリカ+中国

こんなふうにまとめられるでしょうか。

たぶんこの情報だけ頭に入れておけば、統計として区別はできるでしょう。しかしながら、もう少しこれらの作物について知っておいても良いのではないかな、ということでご紹介していきます。

各作物について

キャッサバ

みなさんご存知の通り、キャッサバといえばタピオカの原料です。まあ別に主食としてタピオカばかりが食べられているわけでもなくて、粉にしてからパンにしたりウガリにしたりするなど、色々食べ方はあるそうです。

原産地は南米大陸で、17世紀にポルトガル奴隷貿易によって全世界的に広まったそうです。

茎を地面に差すだけでとにかく簡単に育ってくれる上、作付面積あたりのカロリーが高いので重宝されたそうですが、食用には毒抜きが必要など、面倒な面もあるそうです。

ヤムイモ

ヤムイモとは、ヤマノイモの仲間の総称だそうです。ヤマノイモというと、山芋あるいは自然薯とも呼ばれる通り、日本でも普通に食べています。長芋もヤムイモに含まれるということで、とろろご飯など、普段から自分たちも食べていることがわかりますね。原産地は色々あるそうで、日本で食べる山芋・長芋は日本・中国原産だそうです。日本の生産は17位(2019)だそうです。

関係ないですけど自然薯ってジネンと読むのが面白いですよね。

タロイモ

タロイモとは、サトイモ属の植物で、根茎を食用するものの総称だそうです。サトイモ属? そう、サトイモタロイモの仲間なんです。へぇーっ、タロイモも日本で食べていたんですね! こう考えると普段の煮物を食べるにもテンションが上がってきます。

原産はマレー地方と考えられていて、熱帯地域などで生産が多いそうです。ちなみに日本の里芋は世界最北のタロイモなんだとか。日本の生産は11位(2019)だそうです。

まとめ

いやあ、意外と食べているんですね、タロイモもヤムイモも。しかも日本で意外と作っている。

キャッサバ ヤムイモ タロイモ
生産量が多い ナイジェリアが高比率 生産量が少ない
東南アジアとアフリカ アフリカ中心 アフリカ+中国
新大陸原産 原産地いろいろ マレー原産
日本ではタピオカを食用 日本では山芋・長芋を食用 日本では里芋を食用
育ちやすいが毒抜き必要 日本は17位 日本は11位

ところで、キャッサバは「新大陸農耕文化」、タロイモは「サバナ農耕文化」であることもわかりました。同じイモだと思っていても、なかなか違いはあるものです。こういうことを知ると、味気ない統計も鮮やかに見えてきますね。

 

 

非文記号のほかに「文意が通じない記号」がほしい

非文とは

非文判定が甘い、と思う場面がちらちらあります。

非文を見て「これ文脈によっては成り立つだろ」と思う場面はあっても、正文を見て「いやこれどんな文脈でも非文だろ」と思う場面は滅多にありません。

「非文」とは、「文法的に成立しない文」です。

たとえば、「勉強しながらコーヒーを飲んだ」という意味で、次の文があったとします。

  • 勉強していながらコーヒーを飲んだ

本来動作の並列を表す「~ながら」の前には、「~ている」の形は使えません。では、文法的に誤りだから非文……かというと、そうでもありません。

辞書を引けばわかりますが、「ながら」には逆接で「そうではあるが」という意味もあります。そのときは、「~ている」に続けることができるのです。少しニュアンスは変わりますが、「勉強しているにもかかわらず、」と同様の意味になるのです。ゆえに、正文です。

文脈を限定した記号がほしい

ただ、このシステムでは不便なことも多いように思います。本当は「こう変えると文意が伝わらなくなるよ」と示したいのに、変えたあとの文が特殊な状況で成り立つことがあると、非常に厄介です。しかも、言語を扱う人間は非文記号を一つ付すためだけに、非現実的なものも含めてあらゆる例外を考えなければなりません。

もし発話意図と例えば真逆の意味になってしまうが、文法的には別の意味で正文として成立しうる文があったとして、それを「狙った意味としては非成立だよ~」と優しく指摘できる記号があったほうが良いのではないでしょうか(すでにあるのかな)。

具体例を見てみましょう。たとえば、

  1. ラジオを聞きながら勉強した
  2. ラジオを聞いていながら勉強した
  3. ラジオを聞きながらも勉強した
  4. ラジオを聞いていながらも勉強した

という例文があったとします。このとき、文脈によって使えるものは異なります。

  • 聞きつつ~の意味:①○ ②✕ ③✕ ④✕
  • 聞いているにもかかわらず~の意味:①△ ②△ ③○ ④○
  • テレビを見つつも勉強したし、ラジオを聞きつつも~という意味:①✕ ②✕ ③○ ④✕

たとえば、「聞きつつ」の文脈だけを考えるとき、もし非文記号が使えると、

  • ラジオを聞きながら(*も)勉強した(←これは誤った記号の使用例です)

と書くだけで、ここに「も」があると非文だよ、と指摘できるのです。

しかし、現状で非文記号はあらゆる文脈において非文の場合しか使えないので、こうした簡潔明瞭な記法はできません。難しいですね。

「抹茶ラテ」にコーヒーは入っているか

抹茶ラテブーム到来

空前の抹茶ラテブームである。綾鷹カフェなる商品が発売されると、一時あちこちで在庫切れになるという騒ぎが起きた。後発で、クラフトボス抹茶ラテも発売された。

 

 ペットボトルのお茶/コーヒー業界を支配する一大ブランドの両者が、ブルーオーシャンだった「抹茶ラテ」業界に参入して全面対決、という形であろうか。
思えば、クラフトボスが「ペットボトルコーヒー革命」を起こしたのも記憶に新しい。それから5年の時を経て、「抹茶ラテ革命」となるのだろうか。

ラテ=コーヒー?

ところで疑問に思うことがある。〇〇ラテは、基本的にはコーヒー入りであることが多い。これはカフェラテの「ラテ」を取っているからだ。たとえば、キャラメル・ラテに入っているのはコーヒー・ミルク・キャラメルだ。
では、抹茶ラテには抹茶・ミルク・コーヒーが入っているのかというと、少なくとも上記の2商品には入っていない。どうしてだろうか。

辞書を引いてみると

カフェラテ【caffè latte(イタリア)】
コーヒーに温めた牛乳を加えたもの。コーヒーはエスプレッソを用いることが多い。◇「カフェラッテ」ともいう。「ラッテ」は「牛乳」の意。

コトバンクより,『飲み物がわかる辞典』,2021/8/19閲覧)

そう、辞書にある通り、カフェラテとはそもそもイタリア語でコーヒー、ミルクという意味である。つまり「ラテ」だけではただ「ミルク」という意味にすぎず、コーヒーであることを必ずしも意味しない!

しかるに、「キャラメルラテ」は「キャラメル・ミルク」であり、語源を考えれば、本来これにコーヒーが入っている道理は全くないのだ。

ちなみに、下に引用したように、カフェ・オ・レはフランス語であり、単に言語の違いなのであるが、カフェラテはエスプレッソ、カフェ・オ・レはドリップコーヒーを使うとして区別されることが多い(が、定義と逆だからといって誤用と指摘できるほどの厳密性はない)。

カフェオレ【café au lait(フランス)】

濃いめにいれたコーヒーに同量の温めた牛乳を加えたもの。フランスでは朝食時に好まれ、カフェオレボウルという持ち手のない大ぶりなカップで供されることが多い。◇「カフェオーレ」ともいう。

(同)

 

では、理論がわかったところで、実際の店舗における「ラテ」や「抹茶ラテ」の取り扱いについて見てみよう。

スターバックスでの取り扱い

スターバックスのサイトを見てみると、「スターバックス・ラテ」を始めとして、コーヒーとミルクが入ったものは〇〇ラテと呼ばれている。一方、紅茶にミルクを入れたものはティー・ラテと呼ばれているようだ。抹茶はティーの方に分類されているから、抹茶 ティー ラテと書いてある。これはわかりやすいかもしれない。

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スターバックスの「ラテ」

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ティー ラテ」の表記

product.starbucks.co.jp

ドトールでの取り扱い

もうひとつ見てみよう。ドトールのサイトを見てみると、こちらも基本的にコーヒー入りのものがラテだ。アイス豆乳ラテなどは、コーヒー+豆乳という始末である(名前は豆乳・ミルクなのに)。しかし、ドトールにおいても、おそらく唯一の例外として抹茶ラテはコーヒーが入っていない。

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ドトールのメニュー

www.doutor.co.jp

まとめ

  • 「カフェラテ」は「カフェ」(コーヒー)+「ラテ」(ミルク)だが、巷に溢れる〇〇ラテは「カフェラテ+〇〇」であることが多い。
  • しかしながら、抹茶ラテだけは例外で、同じ名前をしながらもコーヒーは入っていないことが多い。(※コーヒー入りの抹茶ラテなどもあるらしい)

ややこしい言葉の世界、いかがでしたか。輸入された外国語の「ラテ」は、本来の意味がよく確認されないまま「カフェラテ」の略語として接尾辞に成り下がっていたようです。こういうのを見るとすぐ言語に詳しい方々が「誤用だ!」とおっしゃることがありますが、私としてはこのくらいが日本語らしくて面白いなと思います。

「どこでもドア」がドアである必要

いつでも どこでも どこにでも

ふと化粧水の広告が目に止まった。そこにはこう書いてあった。

「いつでも どこでも どこにでも」

つまりは万能な商品だということをアピールしたいのだろう。どんな時、どんな場所においてでも、また体のどの部位にでも使える化粧水だ、という意味である。

この謳い文句において、「どこでも」と「どこにでも」は、一見重複しているようで、意味は"自分のいる場所"と"化粧水を使う対象の部位"であることから、こうして2つ区別して書く必要があった。

しかしながら、ここで一つ疑問が湧いてくる。単独で使用する場合、後者の意味についても「どこでも」と言えるのではないだろうか。

  • この化粧水、どこでも使えますよ
  • 子供はどこでも落書きするからね

前者も後者も、「どんな場所でも」という意味でも、「どんな部位/場所にでも」という意味でも、両方成立しそうである。

「どこにでも」は一定の条件下で「どこでも」と置き換えられそうだ。

どこでも/どこにでも/どこででも……

では、「どこでも」の種類を確認することとしよう。

  • 携帯電話はどこでも使える。(○どこででも)

これは、"動作主体の居場所"を示す。つまり「で格」であり、「どこででも」とも書ける。

  • 子供はどこでも落書きするからね(○どこででも/○どこにでも)

 先程も上げたこの文では、「で格」の解釈もできるが、"動作の対象"を示す「に格」の解釈もできるから、それぞれ別の意味になるが、「どこででも」「どこにでも」と書ける。

  • 現代は飛行機でどこでも行ける(○どこにでも・どこへでも)

この例では、「行く」先が「どこでも」であるから、終点や方向を表す「に格」や「へ格」の意味になり、「どこにでも」「どこへでも」と書ける。

ちなみに、「に」と「へ」の違いとしては、こんな例文で区別できる。

  • このチケットがあればどこでも入れる(○どこにでも/△どこへでも)

「へ」が方向性を示すのに対して、「に」は終着点が意識される状態で使われるので、「入る」という動詞だと「へ」の使用が厳しそうだ。

  • あの人はどこでも掃除する(○どこででも/○どこをでも)

譬えば旅先でも掃除するという人なら「で格」として解釈できる。トイレでも天井裏でも構わず掃除してくれるという人なら「を格」で解釈して、どんな場所をも掃除する、という意味になる。

「どこをでも」の「を」は基本的に姿を表さないのであえて書き換えると違和感があるかもしれないが、「天井裏を/トイレを掃除する」という風に言うことを思い出していただければ、すんなり受け入れてもらえるだろう。

ちなみに、余談になるが、これを否定文にすると、

  • あの人はどこでも掃除しない(△どこをでも/○どこででも)
  • あの人はどこも掃除しない(○どこをでも/✕どこででも)

となり、解釈がすっきり分かれる*1

多様に解釈できる「どこでも」

以上の通り、文脈や動詞による制限はあるものの、一般に「どこでも」という言葉は、「を」「に」「で」「へ」など、様々な助詞の機能を内包しうるということがおわかりいただけただろうか*2

このような理由があって、本来は「どこでも」で表せるはずの2つの意味をあえて区別するため、冒頭にあげた広告では「いつでも どこでも どこにでも」と「に」を添えてやっているのだ。

どこでもドア!?

さて、「どこでも」の話をずっとしてきたが、どこでもドアという秘密道具を思い出した人もいただろうか。

今更ながら、漫画『ドラえもん』に登場する、その扉をくぐると世界中のどんな場所にでも瞬時に移動できるマシンの名称が、「どこでもドア」と言うのだ。つまり、「どこ"に"でも行けるドア」ということだ。

どこまでもドア

しかし、このどこでもドアだが、これまで話してきたような「どこでも」の多義性から考えるに、私はこの道具がドアの形状をしていることが肝要だと思う。

もしドアでなかったら

譬えば、これがドアの形をした道具ではなくて、腕時計型で、竜頭を回して場所を瞬時に移動できる道具だったとしよう。名前は、「どこでも腕時計」……。

……って、いやいやいや。「どこでも腕時計」は、あくまで「どんな場所ででも使える腕時計」だ。せめて、「どこへでも腕時計」くらいに改称せねばならない。

じゃあ、打って変わってスプレー状の道具だとして、壁にスプレーを噴霧すると、そこに移動先へのワープホールが完成する、という道具だったとしよう。名前は、「どこでもスプレー」……。

……って、いやいや、「どこでもスプレー」は、あくまで「どんな場所にでも使えるスプレー」であって、「どんな場所へでも行ける」代物だとは名前から想像もつかない。こちらも、「どこへでもスプレー」に改称だ。

なぜドアは許されるのか

ではなぜドアならば良いのか。それは、単純にドアというものが、持ち運べず、対象をもたないため、他の「で」「を」などで解釈不能だからだ。

どこでもドアと聞いて、「どんな場所ででも使えるドア」などを想像する人は少ないだろう。ドアは持ち運び、動かして使うものではないからだ。

あくまでドアは行く先だけに関係がある。「地下室へつながるドア」「未来へ開くドア」などと言うように、基本的に方向や対象が追加情報として来ることが多いのがドアという名詞なのだ。それゆえに、ドアに「どこでも」が付加されていると、(一般に考えづらい空想じみた話であっても)成程どこ"へ"でも行けるのだろうな、と簡単に予想することができるのだ。

余談だが「どこでもカー」ではこんどは秘密道具としての性質が薄まってしまう。乗り物に乗って瞬間移動してもしょうがないからだ。どこでもドアの凄さは、本来移動の道具でないはずのドアで瞬間移動ができる点にある。車や飛行機の形をしていたら、移動に係る能力が少々進歩したもの、程度にしかならないのだ。

作者藤子・F・不二雄に取っては何とも無くふと閃いた案だったやもしれぬが、こうして考えるとどこでもドアという道具一つ取っても秀逸なアイデアに満ちた作品だということがわかるものだ。

 

*1:ただ、この原因でもある「どこ"で"も」の中の「で」の存在について議論すると長いので、今回は踏み込まない

*2:「から」「まで」なども使えそうだが、今回は省略

都バスから見る東京の地形:上60(大塚駅―上野公園)

春日駅前と都バス

都内には何箇所か、都営バスが大量に走る場所がある。一路線の本数が多い六本木通りや王子、葛西なども見どころだが、山手線内において、山手線の駅以外で特に都バスが集まるのが(市谷仲之町交差点や早稲田も捨てがたいが)、春日駅前だと思う。

春日駅前止まりのバスというのは無く、要はターミナルではないのだが、この近辺を走るバスはなぜかここを通る。それは需要という以上に、地形が大きく関係しているようだ。

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都バスの集まる春日駅前(みんくるマップより)

ここには以下の4系統が集まる。特に都02系統は本数がかなり多く、時刻表を見ずに乗れるほどである。

しかしここで奇妙なことに気づく。上60系統が遠回りしているのだ。

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春日駅前を通る都バスの概覧(作成:驟雨)

上60以外の系統は、起終点に差こそあれ、全て春日通りを通り、主要路線・都02と並走している。一方、上60は、起終点は被っているにもかかわらず、春日通りには春日駅前の交差点でのみしか現れない。(バスは短距離の利用が多く、長距離需要は少ないとはいえ)わざわざ都02と重複する区間を別系統で結んでいるのだろうか。

これは筆者も疑問に思っていたが、実際に乗ってみるとその理由はすぐに分かった。地形である。

地形とバス路線

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地理院地図より 青に近い色が低地である

上の地図を見てほしい。東京の文京地区には、本郷台地などの台地が北から伸びており、台地と谷が入り組んでいる。

特に春日駅は、小石川台地と本郷台地と呼ばれる2つの台地の谷間に位置するものである。(注:中央下の円形の建物が東京ドームで、その直上の、駅と道路が交差して十字に見える地点が春日駅である)

ここで、都02系統のルートをざっくりと書き込んでみよう。

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紫線が都02系統のルート(その下の幹線道路が春日通り)

そう、上図を見ればわかる通り、都02系統は、上野〜湯島で本郷台を上り、春日駅前で谷を渡り、以降終点の大塚駅まで小石川台を走り切る、という形になっていたのだ。つまり、都02系統などの路線は基本的に「台地上を走る路線」であり、春日駅前の谷は回避できないから、仕方なく降りて来るという仕組みだったのだ。

(ちなみに、本郷台を回避しようとすると、神保町付近の駿河台下まで南下する必要がある)

一方、上60系統の経路も書き込んでみよう。

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黄線が上60系統 谷を走っているのがわかる

驚くことに、台地は東大農学部付近の最低限の区間しか通っていない。以降はずっと低地を走行している。つまり「低地を走る路線」として都02などと棲み分けているのだ。

おそらく、急な坂だらけの沿線地域では、台地上の春日通りがメインストリートで、バスが多く走っているとしても、低地の人々は坂を上って利用するのが困難なのだろう。そこで、低地の人々の足として、谷を巡るように走る上60系統が必要とされたのではないか……。このように考えを膨らませると、わくわくしてくる。

この系統が本当に地形的な面を配慮して作られたのか、歴史的な背景こそ知らないが、しかし地形が大きく影響していることは間違いない。バスの路線図一つとっても、そこからは背景にある東京の地形の姿が浮かび上がってくる。

皆さんもバスに乗ったときは地形を気にしてみてはいかがだろうか。

おまけ

都02と都02乙は台地上、上60は低地を走るということで一貫していたが、怪しい動きをしているのが上69である。大曲という低地のバス停から、わざわざ伝通院という台地上を経由して春日駅前に降りてくる。丸ノ内線に沿って進めば坂の上り下りが省けそうなところだが、この区間の需要がもしかしたらあるのだろうか。などと考えるのも面白い。

"最新"という意味の「最後」

英語を読んでいたら、こんな文を見ました

"The last time I visited Japan,"

用意されていた和訳は、「私が最後に日本を訪れたとき」でした。

しかし、これって誤訳と言われてもおかしくないレベルではないでしょうか?

別に文脈上、「病気でもう動けなくなってしまって」とか「国交が悪くなって」みたいな意味はありませんから、ここでの"last"は恐らく「直近の」「一番最近で」「前回」という意味ではなかろうかと思われるのです。

"last"

まずは英和辞典を引いてみましょう。

last [形容詞]
A
1[通例 the last] (時間・順序が)最後の,終わりの,最終の (⇔first) 《★【類語】 last は連続したもののいちばん最後のものを表わすが,その一連の事物の完了・終結を必ずしも示さない; final は一連の事物がそれで終結することを示す; ultimate はある長い過程の最終的な段階を示し,それ以上は続かないことを示す》.
2a最後に残った,おしまいの.
b[通例 the last,one's last] 最終の; 生涯の終わりの,臨終の; 終末の.
3[the last]
a[to do または関係詞節を伴って] 最も…しそうもない,まさか…しまいと思われる.
b〔…に〕最も不適当[不相応]な 〔for〕.
4[the last] 最下位の,最低の.
5[the last] 最上の,この上ない.
6決定的な,最後的な,究極の.
B
1[時を表わす名詞の前に用いて] すぐ[この]前の,昨…,去る…,先… 《★【用法】 副詞句[節]にも用いる; cf. next 形容詞 1a》.
last night 昨夜, ゆうべ 《★【用法】 last day, last morning, last afternoon とはいわないで, その時は yesterday, yesterday morning, yesterday afternoon を用いる》.
2[通例 the last,one's last] 最近の 《★後の名詞を略すと last は代名詞; ⇒代名詞 2》.
3[the last] 最新(流行)の.

(『研究社新英和中辞典』より,weblio英和辞典・和英辞典,2021/7/4閲覧)(例文を省略) 

ejje.weblio.jp

ここでは、おそらくBの意味なのではないでしょうか。

Aの【類語】にも書かれていますが、「last は連続したもののいちばん最後のものを表わすが,その一連の事物の完了・終結を必ずしも示さない」のだそうです。要は時系列上一番最近の側にある、ということですね。しかし問題は、この意味が日本語の「最後」という言葉に合致するか否かです。では国語辞典を引いてみることにします。

「最後」

精選版日本国語大辞典では、

さい‐ご【最後】〔名〕
① 物事のいちばん終わり。最終。終末。
② =さいご(最期)
③ 空間的にいちばん後ろ。
④ (それをしたらそれですべて終わりの意。「…が最後」「…たら最後」などの形で、仮定や事実を述べる句に付いて、次に述べる事態との区切りを強調する) 一旦…したら、それきり。…したらそれからは…。百年目。

(『精選版日本国語大辞典』より,コトバンク,2021/7/4閲覧)

kotobank.jp

デジタル大辞泉』『岩波国語辞典 第二版』『明鏡国語辞典 第二版』等を引きましたが、どれも精選版日国で①②④に該当する3つしか項目立てされていませんでした。*1

誤訳なのだろうか

国語辞書の記述から考えるに、日本語で「最後」というときは、"それを以てすべて終わりで、以後は続かない"という意味がやはり強いのではないでしょうか。英和辞典の記述とも照らせば、どちらかと言えば"finally"に近そうです。

「最後に日本を訪れたとき」と言ってしまうと、以後はもう訪れない気なのかと誤解されてしまう場合もあるでしょうから、和訳に際しては避けたほうがいい表現かもしれません。

一方で、英語の"last"から意味が流入したのかどうかは知りませんが、日本語の「最後」を、「現時点で最新」という意味でも使わないでもないと筆者は体感しておりますから、日本語の「最後」の利用法については、また注視していきたく思います。コーパスの「中納言」、申請出さなきゃ……

※知人曰く、「最後に会ったのいつだったっけ?」などの表現も現にあるじゃないか、とのことでした。確かに。これは「最後」を使わないで言おうとすると少々面倒かもしれませんね。少し前に書いた「ばかり」の記事然り、国語辞書の記述が現代語の感覚と乖離する場合も大いにあるでしょうから、辞書以外も視野に入れて調べていきたいものです。

*1:明鏡は「最後」に「最期」の意味を記述せず、岩波は「さいご」を①「最後」②「最期」と分類し、「最後」に「最期」の意味は記述せず