「どこでもドア」がドアである必要
いつでも どこでも どこにでも
ふと化粧水の広告が目に止まった。そこにはこう書いてあった。
「いつでも どこでも どこにでも」
つまりは万能な商品だということをアピールしたいのだろう。どんな時、どんな場所においてでも、また体のどの部位にでも使える化粧水だ、という意味である。
この謳い文句において、「どこでも」と「どこにでも」は、一見重複しているようで、意味は"自分のいる場所"と"化粧水を使う対象の部位"であることから、こうして2つ区別して書く必要があった。
しかしながら、ここで一つ疑問が湧いてくる。単独で使用する場合、後者の意味についても「どこでも」と言えるのではないだろうか。
- この化粧水、どこでも使えますよ
- 子供はどこでも落書きするからね
前者も後者も、「どんな場所でも」という意味でも、「どんな部位/場所にでも」という意味でも、両方成立しそうである。
「どこにでも」は一定の条件下で「どこでも」と置き換えられそうだ。
どこでも/どこにでも/どこででも……
では、「どこでも」の種類を確認することとしよう。
- 携帯電話はどこでも使える。(○どこででも)
これは、"動作主体の居場所"を示す。つまり「で格」であり、「どこででも」とも書ける。
- 子供はどこでも落書きするからね(○どこででも/○どこにでも)
先程も上げたこの文では、「で格」の解釈もできるが、"動作の対象"を示す「に格」の解釈もできるから、それぞれ別の意味になるが、「どこででも」「どこにでも」と書ける。
- 現代は飛行機でどこでも行ける(○どこにでも・どこへでも)
この例では、「行く」先が「どこでも」であるから、終点や方向を表す「に格」や「へ格」の意味になり、「どこにでも」「どこへでも」と書ける。
ちなみに、「に」と「へ」の違いとしては、こんな例文で区別できる。
- このチケットがあればどこでも入れる(○どこにでも/△どこへでも)
「へ」が方向性を示すのに対して、「に」は終着点が意識される状態で使われるので、「入る」という動詞だと「へ」の使用が厳しそうだ。
- あの人はどこでも掃除する(○どこででも/○どこをでも)
譬えば旅先でも掃除するという人なら「で格」として解釈できる。トイレでも天井裏でも構わず掃除してくれるという人なら「を格」で解釈して、どんな場所をも掃除する、という意味になる。
「どこをでも」の「を」は基本的に姿を表さないのであえて書き換えると違和感があるかもしれないが、「天井裏を/トイレを掃除する」という風に言うことを思い出していただければ、すんなり受け入れてもらえるだろう。
ちなみに、余談になるが、これを否定文にすると、
- あの人はどこでも掃除しない(△どこをでも/○どこででも)
- あの人はどこも掃除しない(○どこをでも/✕どこででも)
となり、解釈がすっきり分かれる*1
多様に解釈できる「どこでも」
以上の通り、文脈や動詞による制限はあるものの、一般に「どこでも」という言葉は、「を」「に」「で」「へ」など、様々な助詞の機能を内包しうるということがおわかりいただけただろうか*2
このような理由があって、本来は「どこでも」で表せるはずの2つの意味をあえて区別するため、冒頭にあげた広告では「いつでも どこでも どこにでも」と「に」を添えてやっているのだ。
どこでもドア!?
さて、「どこでも」の話をずっとしてきたが、どこでもドアという秘密道具を思い出した人もいただろうか。
今更ながら、漫画『ドラえもん』に登場する、その扉をくぐると世界中のどんな場所にでも瞬時に移動できるマシンの名称が、「どこでもドア」と言うのだ。つまり、「どこ"に"でも行けるドア」ということだ。
しかし、このどこでもドアだが、これまで話してきたような「どこでも」の多義性から考えるに、私はこの道具がドアの形状をしていることが肝要だと思う。
もしドアでなかったら
譬えば、これがドアの形をした道具ではなくて、腕時計型で、竜頭を回して場所を瞬時に移動できる道具だったとしよう。名前は、「どこでも腕時計」……。
……って、いやいやいや。「どこでも腕時計」は、あくまで「どんな場所ででも使える腕時計」だ。せめて、「どこへでも腕時計」くらいに改称せねばならない。
じゃあ、打って変わってスプレー状の道具だとして、壁にスプレーを噴霧すると、そこに移動先へのワープホールが完成する、という道具だったとしよう。名前は、「どこでもスプレー」……。
……って、いやいや、「どこでもスプレー」は、あくまで「どんな場所にでも使えるスプレー」であって、「どんな場所へでも行ける」代物だとは名前から想像もつかない。こちらも、「どこへでもスプレー」に改称だ。
なぜドアは許されるのか
ではなぜドアならば良いのか。それは、単純にドアというものが、持ち運べず、対象をもたないため、他の「で」「を」などで解釈不能だからだ。
どこでもドアと聞いて、「どんな場所ででも使えるドア」などを想像する人は少ないだろう。ドアは持ち運び、動かして使うものではないからだ。
あくまでドアは行く先だけに関係がある。「地下室へつながるドア」「未来へ開くドア」などと言うように、基本的に方向や対象が追加情報として来ることが多いのがドアという名詞なのだ。それゆえに、ドアに「どこでも」が付加されていると、(一般に考えづらい空想じみた話であっても)成程どこ"へ"でも行けるのだろうな、と簡単に予想することができるのだ。
余談だが「どこでもカー」ではこんどは秘密道具としての性質が薄まってしまう。乗り物に乗って瞬間移動してもしょうがないからだ。どこでもドアの凄さは、本来移動の道具でないはずのドアで瞬間移動ができる点にある。車や飛行機の形をしていたら、移動に係る能力が少々進歩したもの、程度にしかならないのだ。
作者藤子・F・不二雄に取っては何とも無くふと閃いた案だったやもしれぬが、こうして考えるとどこでもドアという道具一つ取っても秀逸なアイデアに満ちた作品だということがわかるものだ。