メモ:日本語動詞の現在形と「~ている」形
「生きる女子全員可愛く見えてきた」
というツイートを先日見かけたのですが、ちょっと引っかかったことがあったので整理程度に書きます。
第一印象
第一印象としては、非文とまでは言わないまでも、伝えたい内容に対して必ずしも適切とは言えない文だと思いました。
というのも、私の想定した文意としては「生きとし生けるもの全て」ならぬ「生きとし生ける女子全て」が「可愛く見えてきた」という文だと思ったからです。
その際、ここでいう「生きる」とか「生きている」という修飾語はほとんど"all"に近いものを意味しています。
考察
しかし、これについて意味の差を生じているのではないか、と友人から意見を得ました。
(1) 生きている女子全員可愛く見えてきた
(2) 生きる女子全員可愛く見えてきた
という2つの文を比べてみましょう。
友人が曰く、(1)は発話時の生存を意味する一方、(2)は「女子は全員、生きていれば可愛く見えてきた」という一種の命題であると。また(1)の場合については、「それはたとえば、現代の美的センスが好きだったり、死体よりも生身の人間の方がやっぱりいいと再確認していたりする場合だと考えられる」と。
私が思うに、(1)が発話時に生存していることを指すのは同意します。しかしながら、これは現代云々ではなく、先程も述べたように「all」の意味ではないでしょうか。
というのも、たとえば先程の「生きとし生けるもの」を例にあげれば、デジタル大辞泉はこう書いています。
いきとし‐いける‐もの【生きとし生けるもの】
[連語]《「と」「し」は強めの助詞》この世に生きているすべてのもの。あらゆる生物。→
(デジタル大辞泉、2022/3/29閲覧)
このように、(「生ける」=)「生きている」が「あらゆる」の意味に近しくなることは現にあります。また、文脈上わざわざ死者を排除するための文とも思いづらいです(生死に言及しなかった場合、おそらく生者に対象が自然と限定される文になりそう)。
……というのが現在のところです。この問題は「生きる」という動詞の特殊性もありますし、「見えてきた」との時制の連関もありますから、なかなか一筋縄ではいきません。続きはたとえば対象を下の3つに広げるなどして考えてみたいものです。
(1) 生きる女子全員可愛く見えてきた
(2) 生きた女子全員可愛く見えてきた
(3) 生きている女子全員可愛く見えてきた