第三回予想問題 国語(文科現文)

第 四 問

次の文章は、堀辰雄の『窓』の全文である。これを読んで、次の問に答えよ。

 

 或る秋の午後、私は、小さな沼がそれを町から完全に隔離してゐる、O夫人の別莊を訪れたのであつた。

 その別莊に達するには、沼のまはりを迂囘してゐる一本の小徑によるほかはないので、その建物が沼に落してゐるその影とともに、たえず私の目の先にありながら、私はなかなかそれに達することが出來なかつた。私が歩きながら何時のまにか夢見心地になつてゐたのは、しかしそのせゐばかりではなく、見棄てられたやうな別莊それ自身の風變りな外見にもよるらしかつた。といふのは、その灰色の小さな建物は、どこからどこまで一面に蔦がからんでゐて、その繁茂の状態から推すと、この家の窓の鎧扉は最近になつて一度も開かれたことがないやうに見えたからである。私は、さういふ家のなかに、數年前からたつた一人きりで、不幸な眼疾を養つてゐるといはれる、美しい未亡人のことを、いくぶん浪漫的に、想像せずにはゐられなかつた。

 さうして私は、(ア)私の突然の訪問と、私の携へてきた用件とが、さういふ夫人の靜かな生活をかき亂すだらうことを恐れたのだつた。私の用件といふのは、——最近、私の恩師であるA氏の遺作展覽會が催されるので、夫人の所有にかかはるところの氏の晩年の作品の一つを是非とも出品して貰はうがためであつた。

 その作品といふのは、それが氏の個人展覽會にはじめて發表された時は、私もそれを一度見ることを得たものであるが、それは難解なものの多い晩年の作品の中でもことに難解なものであつて、その「窓」といふごく簡單な表題にもかかはらず、氏獨特の線と色彩とによる異常なメタフオルのために、そこに描かれてある對象のほとんど何物をも見分けることの出來なかつた作品であつた。しかしそれは、氏のもつとも自ら愛してゐた作品であつて、その晩年私に、自分の繪を理解するための鍵はその中にある、とまで云はれたことがあつた。だが、何時からかその繪の所有者となつてゐたO夫人は、何故かそれを深く祕藏してしまつて、その後われわれの再び見る機會を得なかつたものであつた。そこで、私は今度の氏の遺作展覽會を口實に、それに出品してもらふことの出來ないまでも、せめて一目でもそれを見たいと思つて、この別莊への訪問を思ひ立つたのであつたが。……

 私は漸くその別莊の前まで來ると、ためらひながら、そのベルを押した。

 しかし家の中はしいんとしてゐた。このベルはあまり使はれないので鳴らなくなつてゐるのかしらと思ひながら、それをためすかのやうに、私がもう一度それを押さうとした瞬間、扉は内側から機械仕掛で開かれるやうに、私の前にしづかに開かれた。

 

 夫人に面會することにすら殆んど絶望してゐた私は、私の名刺を通じると、思ひがけなくも容易にそれを許されたのであつた。

 私の案内された一室は、他のどの部屋よりも、一そう薄暗かつた。

 私はその部屋の中に這入つて行きながら、隅の方の椅子から夫人がしづかに立ち上つて私に輕く會釋するのを認めた時には、(イ)私はあやふく夫人が盲目であるのを忘れようとした位であつた。それほど、夫人はこの家の中でなら、何もかも知悉してゐて、ほとんどわれわれと同樣に振舞へるらしく見えたからである。

 夫人は私に椅子の一つをすすめ、それに私の腰を下したのを知ると、ほとんど唐突と思はれるくらゐ、A氏に關するさまざまな質問を、次から次へと私に發するのだつた。

 私は勿論、よろこんで自分の知つてゐる限りのことを彼女に答へた。

 のみならず、私は夫人に氣に入らうとするのあまり、夫人の質問を待たうとせずに、私だけの知つてゐるA氏の祕密まで、いくつとなく洩らした位であつた。たとへば、かういふことまでも私は夫人に話したのである。――私はA氏とともに、第何囘かのフランス美術展覽會にセザンヌの繪を見に行つたことがあつた。私達はしばらくその繪の前から離れられずにゐたが、その時あたりに人氣のないのを見すますと、いきなり氏はその繪に近づいて行つて、自分の小指を脣で濡らしながら、それでもつてその繪の一部をしきりに擦つてゐた。

 私が思はずそれから不吉な豫感を感じて、そつと近づいて行くと、氏はその緑色になつた小指を私に見せながら、「かうでもしなければ、この色はとても盜めないよ」と低い聲でささやいたのであつた。……

 私はさういふ話をしながら、A氏について異常な好奇心を持つてゐるらしいこの夫人が、いつか私にも或る特別な感情を持ち出してゐるらしいことを見逃さなかつた。

 そのうちに私達の話題は、夫人の所有してゐる氏の作品の上に落ちて行つた。

 私は、さつきから待ちに待つてゐたこの機會をすばやく捕へるが早いか、私の用件を切り出したのである。

 するとそれに對して彼女の答へたことはかうであつた。

「あの繪はもうA氏の繪として、世間の人々にお見せすることは出來ないのです。たとへそれをお見せしたところで、誰もそれを本物として取扱つてはくれないでせう。何故と云ひますと、あの繪はもう、それが數年前に持つてゐたとほりの姿を持つてゐないからです」

 彼女の云ふことは私にはすぐ理解されなかつた。私は、ことによるとこの夫人は氣の毒なことにすこし氣が變になつてゐるのかも知れないと考へ出した位であつた。

「あなたは數年前のあの繪をよく憶えていらつしやいますか?」と彼女が云つた。

「よく憶えてゐます。」

「それなら、あれを一度お見せさへしたら……」

 夫人はしばらく何か躊躇してゐるやうに見えた。やがて彼女は云つた。

「……よろしうございます。私はそれをあなたにお見せいたします。私はそれを私だけの祕密として置きたかつたのですけれども。——私はいま、このやうに眼を病んで居ります。ですから、私がまだこんなに眼の惡くなかつた數年前にそれを見た時と、この繪がどんなに變つてゐるかを、私はただ私の心で感じてゐるのに過ぎません。私はさういふ自分の感じの正確なことを信じて居りますが、あなたにそれをお見せして、一度それをあなたにも確かめていただきたうございます。」

 そして夫人は、私を促すやうに立ち上つた。私はうす暗い廊下から廊下へと、私の方がかへつて眼が見えないかのやうに、夫人の跡について行つた。

 急に夫人は立ち止つた。そして私は、夫人と私とがA氏の繪の前に立つてゐることに氣づいた。その繪はどこから來るのか、不思議な、何とも云へず神祕な光線のなかに、その内廊だか、部屋だかわからないやうな場所の、宙に浮いてゐるやうに見えた。——といふよりも、(ウ)文字通り、そのうす暗い場所にひらかれてゐる唯一の「窓」であつた! そしてそれの帶びてゐるこの世ならぬ光りは、その繪自身から發せられてゐるもののやうであつた。或ひはその窓をとほして一つの超自然界から這入つてくる光線のやうであつた。——と同時に、それはまた、私のかたはらに居る夫人のその繪に對する鋭い感受性が私の心にまで傳播してくるためのやうにも思はれた。

 その上、私をもつと驚かせたのは、その超自然的な、光線のなかに、數年前私の見た時にはまつたく氣づかなかつたところの、A氏の青白い顏がくつきりと浮び出してゐることだつた。それをいま初めて發見する私の驚きかたといふものはなかつた。私の心臟ははげしく打つた。

 けれども私には、數年前のこの繪に、さういふものが描かれてあつたとは、どうしても信ずることが出來なかつた。

「あつ、A氏の顏が!」と私は思はず叫んだ。

「あなたにもそれがお見えになりますか?」

「ええ確かに見えます。」

 そこの薄明にいつしか慣れてきた私の眼は、その時夫人の顏の上に何ともいへぬ輝かしい色の漂つたのを認めた。

 私は再び私の視線をその繪の上に移しながら、この驚くべき變化、一つの奇蹟について考へ出した。それがこのやうに描きかへられたのでないことはこの夫人を信用すればいい。よしまた描きかへられたのにせよ、それはむしろ私達がいま見てゐるものの上に、更に線や色彩を加へられたものが數年前に私達が展覽會で見たものであつて、それが年月の流れによつて變色か何かして、その以前の下繪がおのづから現はれてきたものと云はなければならない。さういふ例は今までにも少くはない。例へばチントレツトの壁畫などがさうであつた。

 ——だが、それにしては、この繪の場合は、あまりに、日數が少なすぎる。數年の間にそのやうな變化が果して起り得るものかどうかは疑はしい。さうだとすると、それは丁度現在のやうに、夫人の驚くべき共感性によつてこの繪の置かれてある唯一の距離、唯一の照明のみが、その他のいかなる距離と照明においても見ることを得ない部分を、私達に見せてゐるのであらうか?

 さういふことを考へてゐるうちに、私にふと、A氏はかつてこの夫人を深く愛してゐたことがあるのではないか、そして夫人もまたそれをひそかに受け容れてゐたのではないか、といふ疑ひがだんだん萠して來た。

 (エ)それから私は深い感動をもつて、私の前のA氏の傑作と、それに見入つてゐるごとく思はれるO夫人の病める眼とを、かはるがはる眺めたのである

 

セザンヌ——ポール・セザンヌ。フランスの画家。

○チントレツト——ティントレット。イタリアのルネサンス期の画家。

 

設 問

㈠「私の突然の訪問と、私の携へてきた用件とが、さういふ夫人の靜かな生活をかき亂すだらうことを恐れた」(傍線部ア)とあるが、どういうことか、説明せよ。

㈡「私はあやふく夫人が盲目であるのを忘れようとした位であつた」(傍線部イ)とあるが、なぜか、説明せよ。

㈢「文字通り、そのうす暗い場所にひらかれてゐる唯一の『窓』であつた」(傍線部ウ)とはどういうことか、説明せよ。

㈣「それから私は深い感動をもつて、私の前のA氏の傑作と、それに見入つてゐるごとく思はれるO夫人の病める眼とを、かはるがはる眺めたのである」(傍線部エ)にあらわれた作者の心情について説明せよ。

 

問題文画像

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補遺

青空文庫に拠ります。

作問が難しいです。文章のチョイスから線の引き方に至るまで、細かい配慮がなされているのだなと実感しました。殊に心情を訊く問題は難しいですね。

㈢については、絵画のタイトルが『窓』であると文章の前半部で言及されているので、それを失念しているとやや見当外れな答案になるやもしれません。

少し調べてみればこの「A氏」や「夫人」が誰をモデルとしているかはわかるのですが、そういうことを知らないで読むのもまた良いものだと思います。

第二回予想問題 国語(漢文)

第 三 問

次の詩は、北宋の欧陽脩(一〇〇七ー一〇七二)の作とされる詩である。これを読んで、次の問に答えよ。(訓点省略してあります。画像を参照してください)


  日本刀歌
昆夷道遠不復通 世伝切玉誰能窮
宝刀近出日本国 越賈得之滄海東
魚皮装貼香木鞘 黃白間雑鍮与銅
百金伝入好事手 佩服可以禳妖凶
伝聞其国居大島 土壌沃饒風俗好
其先徐福詐秦民 採薬淹留丱童老
百工五種与之居 至今器玩皆精巧
朝貢献屡往来 士人往往工詞藻
徐福行時書未焚 逸書百篇今尚存
令厳不許伝中国 挙世無人識古文
先王大典蔵夷貊 蒼波浩蕩無通津
令人感激坐流涕 繡渋短刀何足云

岩波文庫『中国名詩選【下】』による)

○昆夷——古代、中国西北に居住した異民族。

○切玉——硬い玉でも切るということ。『列子』湯文篇に、周の穆王が西戎を制したときに献じられた剣について「用之切玉如切泥焉」とある。

○越賈——越の商人。  

○鍮——真鍮。 

○妖凶——魔物、邪悪な人。

○佩服——身に付ける。

○淹留——長く留まること。

○丱童——童子
○徐福——始皇帝(前二五九ー前二一〇)の命で東海へと旅立ったとされ、一説には日本へたどり着いたともされる。  

○百工五種——各種の工芸職人と五穀。

○器玩——愛玩品。鑑賞するもの。

○前朝——唐王朝(六一八ー九〇七)。

○書未焚——始皇帝による焚書儒家などの書物の焼却)が行われる前であったということ。

○古文——始皇帝の文字統一以前に使われていた書体。

○夷貊——東方の異民族。日本のこと。

○浩蕩——広々として大きい。

○通律——各地へとつながる港。

○繍渋——錆びついて切れない。

設 問

㈠傍線部a・b・cを現代語訳せよ。

㈡「前朝貢献屡往来」(傍線部d)を、平易な現代語に訳せ。

㈢「拳世無人識古文」(傍線部e)とあるが、それはなぜか、説明せよ。

㈣「令人感激坐流涕」(傍線部f)とあるが、何がそうさせたのか、説明せよ。

問題文(画像)

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補遺

国史の知識があるほうが多少有利に働くでしょう。傍線部aが初っ端から難しいように感じますが、これは外しても仕方ないのかなと思います。傍線部bは、詩であるゆえに返り点が振られていない(好事の手"に"…です)ことに気づけば大丈夫でしょう。

説明問題は文章の本筋の部分しか聞いていないので、文脈がなんとなくわかれば解けるのではないでしょうか。

旧字は新字に直されて出題されることが多いので、気がついたものは新字に直しました。返り点は自分でつけました。返り点や送り仮名を振るのが最高に面倒でした。余程のことでもない限りもうやりたくない経験です。

 *

毎度のことですが稚拙な部分についてはご容赦ください。誤りについてはご連絡いただけると幸いです。

第一回予想問題 国語(古文)

問題文の画像は下部にあります。画像では都合上ア~キの記号を略しています。

第二問

 次の文章は『とはずがたり』の一節である。作者は大納言の娘で幼い時から後深草院の御所に出入りし可愛がられていたが、ある夜、邸を訪れた院に関係を結ぶよう迫られると、作者は思いがけない展開に驚きかつ悲しみ、院を拒む。以下はその翌朝、院が帰る場面から始まる部分である。これを読んで、次の問に答えよ。

 

 夜もすがら、終に一言葉の御返事だに申さで、明けぬる音して、「還御は今朝にてはあるまじきにや」など言ふ音すれば、「ことあり顔なる朝帰りかな」とひとりごち給ひて、起き出で給ふとて、「(ア)あさましく思はずなるもてなしこそ、振分髪の昔の契りも、甲斐なき心地すれ。いたく人目あやしからぬやうにもてなしてこそ、よかるべけれ。あまりに埋もれたらば、人いかが思はん」など、(イ)かつは恨みまた慰み給へども、終に答へ申さざりしかば、「あな。力なのさまや」とて起き給ひて、御直衣など召して、「御車寄せよ」など言へば、大納言の音して、「御粥参らせらるるにや」と聞くも、また見るまじき人のやうに、昨日は恋しき心地ぞする。

 還御なりぬと聞けども、同じさまにてひきかづきて寝たるに、いつの程にか、「御文」と言ふもあさまし。大納言の北の方、尼上など来て、「いかに。などか起きぬ」など言ふも悲しければ、「夜より心地わびしくて」と言へば、「新枕の名残か」など人思ひたるさまもわびしきに、この御文を持ち騒げども、誰かは見ん。「(ウ)御使立ちわづらふ。いかにいかに」と言ひわびて、「大納言に申せ」など言ふも耐へがたきに、「心地わぶらんは」とておはしたり。この御文を持て騒ぐに、「いかなる言ふ甲斐なさぞ。御返事はまだ申さじにや」とて、繰る音す。

  あまた年さすがに慣れし小夜衣重ねぬ袖に残る移り香

紫の薄様に書かれたり。この御歌を見て面々に、「(エ)このごろの若き人には違ひたり」など言ふ。いとむつかしくて起きもあがらぬに、(オ)「さのみ宣旨書きも、なかなか便なかりぬべし」など言ひわびて、御使の禄などばかりにて、「言ふ甲斐なく、同じさまにて臥して侍るほどに、かかるかしこき御文をもいまだ見侍らで」などや申されけん。

 昼つ方、思ひもよらぬ人の文あり。

 「今よりや思ひ消えなん一方に煙の末のなびき果てなば

これまでこそ、(カ)つれなき命もながらへて侍りつれ。今は何事をか」などあり。「かかる心の跡のなきまで」とだみつけにしたる、縹の薄様に書きたり。「忍ぶの山の」とある所をいささか破りて、

  知られじな思ひ乱れて夕煙(キ)なびきもやらぬ下の心は

とばかり書きて遣ししかども、とは何事ぞと、われながらおぼえ侍りき。

 

〔注〕

○還御——天皇上皇などの貴人が外出先から居所に帰還すること。

○御粥参らせらるるにや——(朝食の)御粥は召し上がるのか。

○いつの程にか——早く。後朝の文は早く来るほど良いものとされた。

○尼上——大納言の母。作者の祖母。

○宣旨書き——代筆。

○思ひもよらぬ人——雪の曙。作者の初恋の人。

○かかる心の跡のなきまで——「消えねただしのぶの山の峰の雲かかる心のあともなきまで」を踏まえる。

○だみつけにしたる——この古歌の情景を彩色で描いてあるということ。

○下の心——本心。

○とは何事ぞ——これはどうしたことかと。作者が自身の心の動きを不審に思っている表現。

 

設 問

㈠傍線部ア・ウ・カを現代語訳せよ。

㈡「かつは恨みまた慰み給へども」(傍線部イ)とあるが、院はなぜこう思ったのか、説明せよ。

㈢「このごろの若き人には違ひたり」(傍線部エ)とはどういうことか、説明せよ。

㈣「『さのみ宣旨書きも、なかなか便なかりぬべし』など言ひわびて」(傍線部オ)を、言葉を補い現代語訳せよ。

㈤「なびきもやらぬ下の心は」(傍線部キ)とあるが、作者は何に心が揺れているのか、説明せよ。

 

問題文(画像)

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単語リスト

  • あさまし
  • ひとりごつ
  • 思はずなり
  • 振分髪
  • かつは
  • あな
  • わぶ
  • わづらふ
  • むつかし
  • 便なし
  • かしこし
  • つれなし

補遺

『新潮日本古典集成(第二十回)とはずがたり』によります。

好きなのでささっと問題にしてみました。分量としても難易度としても同程度のものではないでしょうか。設問と注釈の拙さはご容赦ください。

作:驟雨

書評:室生犀星『幼年時代』

書名:『或る少女の死まで 他二篇』より『幼年時代

著者:室生犀星

発行:岩波文庫

元はと言えば読書のメモを取るために始めたはずのブログだったのですが、是迄一度も新規の書評をすることがありませんでした。今後は簡単につけて行こうと思います。

谷中のほうに"鮫の歯"という古書店があるが、営業時間は「昼頃から夕暮れまで」という。実に素晴らしい精神性である。江戸以前の人間と同じく、なんと絶対的な時刻でなく、太陽の運動によって「昼」の長さが決まるのだ。内装や雰囲気、本の種類が好みで何度か足を運んだのだが、どうもその気まぐれな営業時間と私の気の向くタイミングが合わない。

実のところ、私がその店に足を踏み入れたのは、初めて通りかかった一度きりである。

確かその日は冷たい長雨が降り続いており、凍える道中にふと見つけた明かりが"鮫の歯"だった。店内の懐かしく穏やかな、それでいて影も湛えているような雰囲気の中には、未だカヴァーの掛かっていない時代の岩波文庫が、小綺麗なフィルムに包装されて並んでいた。中でも特に、『或る少女の死まで』という、ドキッとする題名が私の心を惹いた。

私のおぼろげな文学史の知識で、おそらくこれが室生犀星の自伝的小説であることは覚えていたが、室生犀星の育ちには全く知識がなかった。それどころか、凡そどの世代の人かもあやふやだった。しかしながら、古本というのは一期一会のものである。仮に他所でこの本に出会ったとしても、その本にはきっと小綺麗なフィルムは無いし、おそらく冬の雨の暗い日に感じた輝きもきっと目減りして見えるだろう。——そう逡巡して、購入したのが、二、三年前のことであった。

あれから何冊の本を読んだか記憶にないが、今夏積ん読を選っていたときに、彼日の感動と共に『或る少女の死まで』と再会した。ささやかな期待とともに頁を開くと、この本を貫く雪国独特の重苦しい空気は、不思議にもあの冬の雨の日と通ずるものがあった。

他二篇とあった通り、本書は『幼年時代』『性に目覚める頃』『或る少女の死まで』の三作から成るが、順に幼少期、思春期、そして上京後の青年期を著した作品である。特に前二篇は時間的近さもあって内容にも密接な繋がりがあるが、テーマが異なる。本稿では、まず『幼年時代』について書く。

幼年時代

犀星の複雑な生い立ちが著されている。文章として特段に華があるわけではなく、どちらかというと随筆と伝記の中間のようなもので、淡々と事物が描写されるのだが、その中でちょっとした心の動きがしばしば述べられる。思うに、この構成自体が実に幼年時代らしいと思わされるのは、子どもはなかなか自分の感情を具に語らず、また当の本人にすらよく解っていないからだろうか。

(以降は"ネタバレ"に該当するので、長くなるが注釈に書いておいた→)*1

私は一度読んで、三作の中でこの『幼年時代』が一番気に入った。素朴で不器用な少年が、複雑でつらい人間関係の中でも生きていく様子が、読んでいるとどこか懐かしいもののように感じられる。それに、起承転結が無いのが良い。特別な出来事が起こるわけではない生活を、偶々この紙面に収まるからというだけの理由で切り取ったかのようである。ドラマの主人公ではない、自分と同じような一人の人間の人生だからこそ、その表現にははっとさせられるものがあるのだ。

次は『性に目覚める頃』『或る少女の死まで』について書きます。

 

*1:全体を通して家族の話であるが、その複雑さゆえ飽きることなく入り込んでゆける。生みの母も姉も、結局疎遠になってしまってそれきりのように書かれているのが、名状しがたい感情を掻き立てる。当時まだ幼い筆者には、一度離れてしまった人間とはもう二度と再会しがたいのである。それゆえに、生みの母との別れを悲しみ、過去を懐かしんでいた時期においても、一方で常に「父」や姉との別れを懼れているのが伝わってくる。現に姉は嫁ぎ、父はその先の死を見据えていた。幼少期に苦しい別れを繰り返した筆者の気持ちは想像を絶するが、しかしながら一度別れを経験した人間が、「守り」に入るような人間関係を構築していくことは、少しわかる。

このような状況下だからこそ筆者は仏教に傾倒した、といえば明快に思えるかもしれない。しかし、作品中で筆者と仏教との出会いは至って自然に、しかもかなり無意識的に行われている。私は(少なくとも信仰心の篤い)仏教徒ではないので、この辺りの思想は想像しがたいのだが、宗教との出会い・信仰心の萌芽とは概ねこのようなものなのだろう、と思った。「父」との静かで素晴らしい関係性も、きっと仏様が導いて下さったのではなかろうか、とすら思わせる力がある。尤も、以後の二篇に彼の仏教的思想はなかなか垣間見えないのであるが。

第四回予想問題 世界史

Y君と共同作問です。

世 界 史

第一問

以下の資料はトルストイ(1828-1910)が新聞に投稿した記事である。以下の文を読み、問いに答えよ。
戦争はまたも起こってしまった。誰にも無用で無益な困難が再来し、偽り、欺きが横行し、そして人類の愚かさ、残忍さを露呈した。
東西を隔てた人々を見るといい。一方は一切の殺生を禁ずる仏教徒であり、一方は世界中の人々は兄弟であり、愛を大切にするキリスト教徒である。その数十万人が、今や残酷な方法によって互いに傷つけ合い、殺し合おうと勢いづき、陸に海に野獣のように戦い合う。ああ、何ということか。これは夢か、そまことれとも真なのか。これは本当であってはならないことだ。ありえないことである。人は、それが夢であることを信じて、すぐに醒めることを願っている。
しかし、そうではない。それは夢ではない。それは事実なのだ!
著者トルストイ
-ロンドンタイムスの非戦論から引用。

問い
このキリスト教国は、彼らの起源である9世紀の公国と比較すると、その社会、政治、宗教的側面が大きく変化したと言える。その変化の過程を論ぜよ。但し、他の国家や民族に受けた影響を踏まえること。(400字以内)

第二問

訪台中のチェコのミロシュ・ビストルチル上院議長は9月1日、台湾の立法院(議会)で演説を行った。
彼は『困難な状況で民主主義を守る者を助けるのは民主主義国家の義務だ、われわれの経験を共有し相互的な協力を深めるために演説の最後に私の決意を込めた言葉を送りたい。「私は台湾市民である」』と述べた。
この最後のセリフは故ジョン・F・ケネディ米大統領が1963年に西ベルリンで行った、彼の最高傑作とも言われる演説をなぞらえたものである。

私は、このベルリンに御高名な市長に招待された客人として訪れることができてとても誇りに思っています。皆さんの街の市長は西ベルリンの戦意 (Fighting Spirit) の象徴として世界中にしらしめた偉大な人です。また、私は、みなさんの著名な大臣とお会いできて大変光栄です。大臣はドイツの民主主義、自由主義、発展に永年かかわってきた方です。そして私は、この街で親しきアメリカの仲間達やあらゆる人々に、いつなんどき、危機的な時にも、ここで会うことができてとても誇りに存じます。
遠く2000年前、人々は「我こそはローマ人である(ラテン語)」と豪語したものでした。現在の自由な世界においては「私こそはベルリン市民である(ドイツ語)」と言えることこそ、もっともすばらしいのです。

問い
ドイツを取り巻く国際的な政治体制と経済を踏まえて、ドイツ国際関係を、第一次世界大戦後からケネディの演説に至るまでの期間で論ぜよ。

第三問

清朝においてそれぞれ61年、60年の治世を実現した[④]、[⑥]は名君と並び称されます。しかしながら、[④]の長い治世ののちの放漫財政を引き締めたほか、統治を安定化するための様々な文化政策を含む内政や外政を行って、[⑥]の治世へと結びつけた[⑤]の、わずか15年の治世も無視することはできません。
[⑤]は、たとえば制度としての奴隷階級を廃して課税したり、北京語を官話として普及させる取り組みを行ったりしたほか、立太子による皇太子の堕落や後継者争いを避け、円滑な皇位継承を実現するための「密勅立太子法」を考案しました。これは、皇位継承者の名前を書いた勅書を封印して隠した後、崩御後に一定人数が立ち会った上で勅書を開くという方法で、この結果、清朝では安定した皇位継承が行われ、愚蒙な皇帝の誕生を避ける効果もあったと言われています。
史上稀に見る勤勉な皇帝で、朝から晩まで政務を行い、大量の上奏文を片っ端から目を透し、朱筆を入れて送り返した[⑤]帝は、治世わずか15年で崩御しました。一説には過労死とも指摘されています。

問い [④][⑤][⑥]の皇帝の名をそれぞれ明かせ。また、 [⑤]の皇帝が取った諸政策について、[④][⑥]の二皇帝の政策と関連付けながら、その歴史的意義を論ぜよ。(400字以内)

補遺

第一問

近年一橋大学では出題されていないロシアからの作問です。ロシアは、ピョートル大帝が偉大な変革者であるというのは言うまでもないでしょう。しかしロシア帝国というものは彼のカリスマだけでなし得たとは言い難い。なぜなら、その下地たる専制君主性やギリシア正教キリル文字は彼の治世に唐突に現れたものではないからです。高校世界史では、ロシアというものはそもそも今のような内面を持っていると言わんばかりに、領土拡大の歴史が語られているばかりです。変化は何があるのか、キエフ公国と日露戦争の時のロシアは比較となるとなるほど難しい。どの点で揃えて比較できるのかを自ら考えなくてはならない過去問は、伊独日の敗戦過程を書くものや、バルト海貿易と地中海貿易を比するものがあります。昨年のレンブラントゲーテもそうでした。こういった問題を、読み手に比較を伝わるように書くのは、予備校でさえ苦慮しているのだと解答速報からも感じられます。(Y)

第二問

1991年の改題。文字数は変わらず400なので、フランスだけではなく、ソビエトアメリカまで抑える必要性を踏まえて、書く内容を選ぶ必要性があります。(Y)

第三問

業績を列挙してみると、六十余年の康煕・乾隆両帝の実績に引けを取らぬほどに雍正帝の実績は多くあり、しかも康煕帝治世の清算乾隆帝以降の安定を形成しただろうと言えますから取り上げてみました。軍機処の設置や地丁銀制の全国化、キリスト教布教禁止などなどですね。(S)

都バスから見る東京の地形:茶51(秋葉原駅―駒込駅)

前回上60系統をご紹介したとき、上60が低地を、都02が台地を走るバスなのだ、と書いた。都02は本郷台を乗り越えて、春日駅前から富坂という坂を登ると、あとは小石川台を終点まで駆け抜ける系統であった。

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都02のルート概要

一方で、本郷台を走る系統はないのか、というと当然ある。茶51および東43系統である。

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どこを走っているだろうか、予想してほしい

茶51系統:秋葉原駅御茶ノ水駅―駒込駅

東43系統:東京駅北口―御茶ノ水駅―駒込病院―田端駅―荒川土手

では、実際の路線図を見てみよう。

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みんくるマップより)

地図に示すと、次の通りになる。

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赤:茶51系統、茶:東43系統(御茶ノ水~向丘二は並走)の経路

茶51系統は、(かつては王子まで伸びていたのだが現在は)このように、ほぼ本郷台で完結する経路となっており、坂があるのは秋葉原御茶ノ水間のみとなっている。

実際に乗車してみると、そのおかげでスムーズに進んだ印象があった。東大前から駒込までは南北線と並走しているが、御茶ノ水秋葉原方面への需要と、停留所間の短さが助けになって存続しているのだろう。

本郷地区の都バスと地形

前回の記事でも書いたように、この付近の都バスの系統はほとんど地形に沿って走っているのがおわかりいただけただろうか。これは茶51系統以外にも言える。試しに書き込んでみよう。

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台地と低地を走るバス
台地上

本郷台(動坂方面):東43(茶)

本郷台(駒込方面):茶51(赤)

本郷台(巣鴨方面):草63(桃)

小石川台:都02(紫)

低地

石神井川流路:上58(青)

小石川流路:上60(橙)

 

このように、バス一つとっても地形と密接な関わりがあるのがおわかりいただけただろうか。皆さんもバスに乗る機会があったら注目してみてほしい。

ちなみにこの中では私のおすすめは草63で、団子坂という急な坂を登る部分が圧巻なのと、白山上停留所の独特な「頂」のような雰囲気が良いので、この区間だけでもぜひ。