第五回予想問題 世界史

世 界 史

第 一 問

大帝国ローマもその属州の拡大が止まると、労働力として当然存在すると見なされていた奴隷の流入は減退した。ローマはラティフンディア維持の為に没落した農民を小作人とした。その後の中世ヨーロッパではキリスト教的友愛の精神により、同じキリスト教徒の奴隷化は禁止されていた。地主は、農民に農業労働を強制する代償に、彼らを防衛した。中世では、恩貸地制と従士制が融合した封建制度と共に、荘園制は相互的に維持していた。それ故に、中世から近世にかけての政治的統合形態の変化は荘園制にも変革をもたらした。
イギリス、フランス、ドイツ、そしてロシアといったヨーロッパ諸国の中世の農業は、いずれも荘園制という形をとりながら、その解体過程には大きな差が存在する。
以上のことを踏まえて、11世紀から20世紀頭までのこれらの国々を比較し、荘園制の変貌、解体の背景を踏まえ、その過程を説明し、荘園制解体の影響を答えよ。解答は、解答欄(イ)に20行以内で記述しなさい。その際、下の8つの語句を必ず一度は用いて、その語句に下線を付しなさい。

中世農業革命 ハルデンベルク エカチェリーナ2世 啓蒙 アレクサンドル二世 農奴解放金 囲い込み ペスト(黒死病

第 二 問

宗教は歴史を大きく動かす力である。歴史上で宗教対立が引き起こした戦争は数知れず、一方で宗教の力で起こった革命もある。また、宗教は巡礼や弾圧からの亡命などで歴史上多くの人の移動を引き起こしてきたという側面もある。宗教にまつわる歴史について、以下の3つの設問に答えなさい。解答は、解答欄(ロ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(3)の番号を付して答えなさい。

(1)インドで多数派の宗教はヒンドゥー教であるが、多宗教の国家である。イスラームについては、イギリスからの独立時にイスラーム教徒の多く住む地域が東西パキスタンとして分離したものの、現在のインドでもイスラーム教徒は人口の二割ほどを占める。また、北部ではシク教などの人口も多い。このことに関する以下の(a)(b)の問いに、冒頭に(a)(b)を付して答えなさい。
(a)インドへのイスラーム勢力の度重なる侵入について、主な民族や王朝名を挙げながら、2行以内で説明しなさい。
(b)紀元前のインドでヴァルナ制を否定する宗教が誕生したことについて、どの層からの支持を集めたのかに触れながら、2行以内で説明しなさい。

(2)中世ヨーロッパにおいて、宗教対立は戦争の大きな原動力であったが、近世ヨーロッパではそのような傾向は薄れていった。特にドイツ三十年戦争は、最後の宗教戦争と呼ばれる一方で、主権国家間戦争としての特徴も確認できる。ドイツ三十年戦争宗教戦争としての側面と、主権国家間戦争としての側面について、合わせて4行以内で説明しなさい。

(3)戦前の朝鮮半島は「東洋のエルサレム」とも呼ばれ、キリスト教が大いに栄えていた。現在も韓国の人口の一割程度を占めると言われるカトリックは、16世紀にイエズス会士などによって布教され、弾圧されつつも信仰を守ったと言われる。一方で朝鮮の開国後にはプロテスタントの宣教があり、現在もプロテスタントが韓国の人口の二割程度いるが、一方で伝統的な価値観も強く残存している。このことに関する以下の(a)(b)の問いに、冒頭に(a)(b)を付して答えなさい。
(a)新羅による統一後からキリスト教伝来以前にかけての朝鮮半島の宗教の様相について、代表的な史跡や書物の名を挙げながら、2行以内で説明しなさい。
(b)16世紀中盤以降、 日本・朝鮮・清朝ではキリスト教に対する激しい弾圧が行われた。この共通の要因として考えられるところを、キリスト教の教義を踏まえて2行以内で説明しなさい。

第 三 問

グローバル化が進展すると言われる現代において、グローバルとは厳然と存在する主権国家の国境を超えた動きのことを指す。しかしながら現在のような国家体制が確立したのは近代以降のことで、それ以前から国を超えた人や物の移動、および国際関係は存在していた。このことに関する以下の設問(1)-(10)に答えなさい。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(10)の番号を付して答えなさい。

(1)古代文明の一つで、古くから記録の残っているエジプトでは、歴史上様々な民族が侵入し、また関わりを持っている。古代エジプトにおける、他民族との交流について、次の(a)(b)の問いに答えなさい。
(a)条約の歴史は古く、国家間の関係が築かれた古代からその存在が確認されている。中でも公式な記録が残っており、現在世界最古の条約として考えられているものに、紀元前1274年頃にシリアで起きた戦争の講和条約が挙げられる。エジプト第19王朝とこの条約を締結した国家の名を答えなさい。
(b)新王国滅亡後のエジプトは末期王朝と呼ばれ、弱体化して存在していた。このうち第25王朝については、ナイル川上流の王国に征服されており、黒人の王がファラオとなっていた。末期王朝時代のエジプトに侵入した、ナイル川上流の王国の名前を答えなさい。
(2) アレクサンダーの東方遠征によって、ヘレニズム期のギリシャの彫刻文化は遠く北インドにまで伝わり、ガンダーラ美術を生んだ。「サモトラケのニケ」などに代表されるこれらヘレニズム期の彫刻文化に先立って、急速に彫刻技術が発展したのは紀元前5世紀ごろとされる。この頃のアテネで活躍し、『アテナ女神像』の製作などで知られる彫刻家の名前を答えなさい。
(3)ユーラシア大陸の東西を結ぶ3本の交易路は、古代から機能していた。たとえばオアシスの道については、紀元前2世紀後半の張騫の派遣後、中国から中央アジアへと至る道として本格的に開拓されている。また、張騫から汗血馬という名馬の存在を耳にした前漢武帝は、中央アジアのある国へ李広利を派遣している。漢の西域諸国への影響力を強めるきっかけともなったこの遠征の、相手国を答えなさい。
(4)神聖ローマ帝国は、その名の通りローマ教会の庇護者としての性質を持ち、皇帝は少なくとも形式上は諸王の上に君臨する存在となっていた。その実質的な権威が下がって、皇帝位がほぼハプスブルク家世襲状態となってからも、金印勅書による選挙は続いていた。1519年に行われた皇帝選挙では、フランス王が初めて立候補し、スペイン王カルロス1世と選定侯の買収合戦を繰り広げたのち、敗れている。このフランス王の名前は何か、答えなさい。
(5)金を滅ぼしたモンゴル帝国は、紙幣を発行し始めた。フビライ即位後の1260年には元の紙幣発行は本格的なものとなり、この時代に国家的規模で広く紙幣が発行され、流通したのは世界史上でも記録的なものである。元で発行された、この紙幣の名前を答えなさい。
(6)インド洋交易は、古代ローマの時代から盛んであり、当初はギリシャ商人、8世紀からはムスリム商人、16世紀からはポルトガル商人や中国商人がこの貿易を担った。インド洋地域の交易について、次の(a)(b)の問いに答えなさい。
(a)北インドイスラーム化が着々と進み、戦闘の中心が従来の象と歩兵から騎兵へと変化しつつある頃、南インドのある王朝は軍事力のために大量の馬をアラブやペルシアから輸入していた。14-17世紀に繁栄したこの王国の名前を答えなさい。
(b)東アフリカの沿岸部は、古来インド系商人やムスリム商人が貿易のために訪れ、言語的・文化的にも他地域と様相を異にしている。現在のソマリアの首都であるモガディシュなどには、この他にも永楽帝時代の中国から貿易を求めて大艦隊が訪れている。この大艦隊を率いた宦官の名を答えなさい。
(7)いわゆる新大陸の発見後、スペイン人などによって、新大陸原産のサツマイモやジャガイモ、トウモロコシなどがヨーロッパやアジアに伝えられたことは、世界の食文化や農業、人口などに大きな変化をもたらした。一方でヨーロッパ人によって新大陸に持ち込まれた栽培植物も少なくない。キューバ島イスパニョーラ島で盛んに栽培されたプランテーション作物は何か、答えなさい。
(8)19世紀後半には、国境を超えた結びつきが強まり、様々な国際機関が設立された。たとえば、郵便の規格化による国際的連携を強化するための機関として、1874年には万国郵便連合が設立された。また、1863年には国際赤十字が設立されている。国際赤十字の設立を提唱した、スイス人実業家の名前は何か、答えなさい。
(9)帝国主義に対抗する国際的な共産主義運動を推進するため、レーニンはいわゆるコミンテルンをモスクワで結成したが、スターリンの一国社会主義の路線が固まると、コミンテルンソ連による各国共産党の指導組織へと変質していた。しかし1943年、スターリンは35年の第7回大会以降未開催だったコミンテルンを解散している。当時の戦争の構図を踏まえて、コミンテルン解散の目的として考えられるところを1行以内で答えなさい。
(10)アルバニアパルチザンを率いたエンヴェル・ホッジャはスターリン主義の信奉者であった。ホッジャ独裁体制下のアルバニアは、フルシチョフスターリン批判を機にソ連と断交、毛沢東主義を掲げる中国に接近するが、文化大革命終了後は断交し、鎖国状態に入ることとなった。しかしそれ以前の1971年にはアルバニアが主導で歴史的な決議が国連総会で成されている。このいわゆるアルバニア決議の内容について、1行以内で答えなさい。

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久しぶりの更新です。第一問はY君作問。取り急ぎ。