読書録をつける

日々新たな情報を体内に取り込みながら生きている我々は、昔のことなどどんどん忘れていってしまう。ただその忘却という行為は、見方を変えれば美化にもなるわけで、印象的だったことや現在にも繋がっていることばかりを記憶に残して、些末なことや、少し厭に思ったことは記憶から排除されるから、人間に取って必要な行為なのだと思う。

ただし、読書に限っては違う。本の内容を忘れたくない。できることなら一言一句漏らさずに覚えておきたい。経験から得る記憶は、忘れようとか忘れまいとか考えずとも受動的に蓄積されるが、読書は凡そ内容を頭に入れようとする能動的な行為であるがゆえに、常に忘却の恐怖に晒されているからだ。何も内容を完璧に忘れてもいいやと思って本を読むだけの体力は私にはない。現実的に言えば、少なくとも不意に思い出した何かしらの本の一節を、すぐに探し出せる状態でありたいとは思う。

だから、本は基本的に紙の本を買って手許に置いておくことにしている。『こゝろ』については読み終わったあとにもう一周読むでもなしに買ったことがあるほどだ。あるいは、読書録をつけておくというのも手だ。読書録をつけると、自分が本を読んだときの感想が初めて言葉になって出てくる。

 

小学校の頃、読書感想文の課題で、よく「本を読んであなたの感想を素直に書きましょう」みたいな言い回しがなされたが、あんなのは欺瞞だと思う。少なくとも私は、普通に生きていて「感想」を手にすることはない。「かなしい」も「さびしい」も、或いは「つまらない」も、言葉にしないうちはぼんやりと正負のうちの「負」の色に薄く塗られただけの感覚であって、言語化を強制されて初めて、困惑しつつもお誂え向きの形容詞をあてがうだけだ。

こんな具合だから、私はどんなに名著の誉れ高い作品を読んだところで、感想は「やばい!」「好き!」くらいのものしか咄嗟には出てこないし、そんなぼんやりした感想だけでは、それまで読んだ多くの「やばい! 好き!」な本と一緒くたになって、没個性的になって沈んでいくのだ。

 

いま読んだ作品を忘れずに心にしまっておくためには、当然ながらその「感想」を差別化する必要がある。感想を差別化するためには、自分自身に曖昧模糊たる感覚の言語化を強制せねばならない。そして言語化とは無形を有形に押し込むという点でひどく体力を消費する営みであり、気軽に始めて終わるような行為ではない。つまり、忘却に抗うために読書録は書くに越したことはないが、その執筆には忘却に抗うという以上の並々ならぬインセンティブを必要とする。本の内容を覚えておきたければ、読書録執筆の動機を探すべきだ。

高校在学中は、図書委員の書評依頼に応じて執筆し、執筆のために読書し、執筆は読書経験に還元されていったものだった。恐らく私の場合は、読まれるか否かはともかく、読者を想定することが一番の動機になるのだろう。書くことは好きだけど、数行限りの日記さえ続かない私は、自分のためには文章が書けないらしい。ひとまずは、ブログという場を自らに与え、その更新を課することで読書経験を有意義にしたい。

 

──書評。単なる自己満足と言われればそれまでだけど、自分のために書いているとなれば、話は別だ。仮に読者を想定しているのも、結局は自分のためなのですから。自己満足バンザイ。文章を書く時は、こう傲慢でなくっちゃ。