書評:なういほん

紹介する本

 

 衒った題をつけてしまった。「ナウい本」である。筆者は最近の学校の図書通信にて古典や詩歌を中心に紹介していたが、一寸ここは目先を変えて、現代文学に手を出してみようではないか。随分簡潔にはなるが、少し紹介してみよう。

 ところで、ナウい本、というのは少々皮肉的だ。「ナウい」という言葉自体が古い。あいみょんの「ナウなヤングにバカ受けするのは当たり前だのクラッ歌」を思い出した。まあ、どうでもいいのだが。それでは一冊目から。

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夜は短し歩けよ乙女

作者=森見登美彦 出版=角川文庫

 題名が何の本歌取りかすぐにわかる人はなかなか教養があるか、よほど懐古趣味であろう。「ゴンドラの唄」という1915年発表の歌謡曲吉井勇作詞)の冒頭、〈命短し恋せよ乙女……〉というフレーズが題の由来である。この歌は美空ひばりちあきなおみ、シャーロット・ケイト・フォックスらにもカバーされる「名曲」なのだが、実をいうとあまり作品中には関係ない。ただ、この大正時代を彷彿とさせるような美しい曲は、作品の世界観を作るのにはもってこいだ。

 舞台は京都(京都大学付近である)、冴えない大学生の「先輩」が、意中の相手である、サークルの後輩「黒髪の乙女」に何とか振り向いてもらおうとする過程での物語だ。乙女は好奇心に溢れた人物で、「オモチロイ」(面白い)ことを探してずんずん歩いてゆくのだが、その過程で沢山の奇妙な人や事件に遭遇する……。といった話。先斗町(ぽんとちょう)の大酒飲み、若者のパンツを奪う老人、「詭弁論部」の学生、春画を集めるおじさんなどなど、愉快で様々な登場人物が作品世界を彩ってくれる。

 この作品は、強いて分類するならば娯楽的な小説であり、作中の所々にSF的、非現実的な描写が存在する(例えば、三階建ての電車、或いはあまりに都合の良い展開など)。しかし、文体へと目を移せば、打って変わってさながら戦前の純文学のようである。本書は、文体や人々の雰囲気から醸し出されるレトロさと、書いてある中身の空想性との間のギャップが面白くて、読者を惹きつける。

 もう少し文体について述べよう。そもそもこの作品は、「先輩」の常体(敬語でない)による独話と「黒髪の乙女」の敬体による独話とが交互に入れ重なって構成されている。読者は、「敬語だから乙女の喋りだな」などと納得しながら読むのだが、敬体常体の差異以上にも二人の文体は区別化されている。

 実際、「乙女」がわりかし普通の(とは言っても充分古風なのだが)言い回しをしているのに対し、特に「先輩」の語り口、漢語を多用しながら調子づいたような文体は、正に書生を見ているかのようで、面白い。書生風の言い回しそれ自体は然程珍しい話ではなく、漫画などでキャラづくりの一環として存在することもあるが、大抵は不自然さが際立って上手くいかないのが常である。然し、ここは作者の腕の見せ所。恐らく文学の素養があってのことだろう、古風な文体の割には随分読みやすく、「成る程こんなことを喋る奴も実在しそうだ」と思わせてくれる。文体の巧さから「先輩」の人間味までが醸し出されてくるのだ。

 長くなったが、このようにレトロでいて幻想的な雰囲気が、読者諸君を虜にして離さないことは間違いなしである。是非読んで見てほしい。

 ちなみに、アニメ化もされていて、なかなか魅力的な映像作品として仕上がっているのであるが、とにかく突拍子のなさと幻想性が売りのこの物語、映像を一見しただけでは文脈が摑みづらいものと思われる。できるだけこの原作を読んでからご覧になるのを薦めたい。

 続いて二冊目。

『明るい夜に出かけて』

作者=佐藤多佳子 出版=集英社文庫

 突然だが諸君はラジオを聴くだろうか。私はすっかりSNS全盛期に生まれて、何でも必要な情報はテレビどころかスマホで手に入れるのが癖である。しかし、それでも偶にラジオを聴くと、あの郷愁的な響きや柔らかい雑音に癒される心地がするものだ。是非機会があれば聴いてみてほしい(それも、インターネットではなくて、電波を拾って)のだが、本書はそのラジオリスナーの話である。

 主人公はコンビニで深夜バイトをする青年だが、SNSでのとあるトラブルが原因で、大学を休学中。自宅とコンビニを往復するくらいの日々で、周囲にも心を閉ざしていた彼の、ほぼ唯一の趣味といっていいのがラジオだった。ラジオの趣味は秘密にしていたのだが、ある日、同じ番組の有名な「ハガキ職人」(ラジオ番組中で読まれる葉書をコンスタントに投稿している人のこと)がコンビニに現れてから、彼の心や周囲に変化がもたらされる……。という話だ。

 令和のこのご時世にラジオとは、どんなにか懐古的な小説だろうと思った人も多いだろうが、案外に深夜バイト・SNSでのトラブル・動画配信サービス等々、現代的な素材が多くあって読みやすく、また共感しやすい。現代に生きる若者の、青年期特有の鬱屈とした精神が素直に描かれていて、我々若い読者の心を摑む作品だ。きっと読後にはラジオが聴きたくなるはず。

 著者の佐藤多佳子は「サマータイム」「しゃべれども しゃべれども」などで有名。タイトルは知っている、ということもあるのではないか。本書もそうだが、自然に若者の心からふっと零れてきたような言葉で書かれており、大変読みやすい。

 最後に、三冊目である。

『月魚』

作者=三浦しをん 出版=角川文庫

 物語は古本屋、それぞれ別の店を経営する古本業者の二人が主人公。語り手の真志喜は無窮堂という老舗の三代目。一方幼馴染の太一は、古本業界では嫌われ者の「せどり」の息子である。元から仲良く、兄弟のように育つ二人だが、少年の日の事件をもとに溝ができてしまう。それでもずっと近しい距離で、然し隔たりを感じながら暮らしてきた二人は、頼まれたある仕事の影響で、その関係性を見直すことになる。

 この本を薦めたい理由はいくつかある。

 先ず、特に本好きの人へ。この本は古本屋の仕事に丁寧に追っており、例えば仕入れの仕方や値段のつけ方などに作中で言及されているのが非常に興味深い。古本屋というのは、某OOKOFFのように漫画を束にして百円の値札をつけるのとは違う。どの本を仕入れるか、いくらの値段をつけるか……。その過程では様々な知識が要求され、学のない人ほど損をする商売なのだ。そこには「才能」も少し関わってくるのだが、皮肉にも、積み重ねた知識が豊富な老舗、無窮堂に対して、「新参者」に近い太一は才能に溢れていた。それが後々問題になってくるのだ。古本を中心に展開するこの物語。本好きなら読んでいて飽きないだろう。

 第二に、本書は読みやすい。現代文学の作家の中でも著名な三浦しをんである、文体に臭みがないし、高尚ぶった鼻持ちならない文体でもない。しっかりと純文学らしい見た目で、読者としては安心感を得られる。筆者も古典に傾倒していた人間だから、現代文学への不安は重々承知なのだ。それ以上に、角川の編集部は「透明な硝子の文体に包まれた濃密な感情」と裏表紙の粗筋において称賛しているように、この作品では文体が、主人公たち二人をより脆く美しいものにしている。全く作者の巧みな技であると思う。

 そして最後に。これはタイトルの「月魚」を一寸Googleで検索してみればわかるが、この小説、BL(ボーイズ・ラブ)小説としても名高い(?)のである。別に特にラブシーンがあるとかいうわけでは無いし、一回も言葉には出てこないのであるが、それでもこの二人の最も近く、然し隔たりのある関係性は、率直に言って「尊い」のである(尊い、というのは純粋に崇高であるという意味の他に、昨今は自分が好きな人やキャラクターを褒めるとき、または純愛ものやBLなどに使うことがあり、概ねは「眩しいほどに輝かしい、触れがたいほどに素晴らしい」といった意味で用いられる)。繰り返しになるが本書はBLと明言されているわけではないので、真偽のほどは不定かだが、その不定かであることすら尊く見えてくるかもしれない。文学は読み手の自由も大いにあると思うので、実際に諸君が読んでみてから判断してほしい。ちなみに、「BLっぽい」作品すべてに言えることだが、BLだと思った瞬間にそうとしか読めなくなるので、くれぐれも注意されたい。

三浦しをん本人が無類のBL好きを明言していたり、短編集「きみはポラリス」(これも良い話ずくめ)の巻頭巻末それぞれが同性愛を扱った作品だったりと、証拠は多い気もするが……。しかし、コンテクストを読むのも面白いが、先ず作品は純粋に文字だけで楽しむという方が良いだろう。

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 如何だっただろうか。多数派ではないだろうが、一部「外国文学しか読まん」「古典しか読まん」「ノンフィクションしか読まん」と自分で読書に縛りを設けてしまっている人がこの学校には少なくないので、あえて新しめの文学作品というテーマで纏めてみた次第だ。ちょっとでも面白そうと思ったら読んでみよう。そういう好奇心を大切に育ててゆきたいものである。

 そういえば、この評の冒頭では「ナウい」が古臭いと述べた。逆に、ではないが、今回紹介した三冊は新しい本ながら、皆「書生」「ラジオ」「古本」と古いものが関わっていた。温故知新というか、古いものの寛容さに救われる、古いものに拠り所を求めて、居場所ができる……という姿勢がこの三冊には共通していたように思う。古いものだけ、新しいものだけでなく、やはり広く多彩な文芸に触れることで、諸君も「この本だ!」という存在に出会えるかもしれない。そんな手助けになれれば、この書評を書いた私も報われるというものである。

おまけ

 特に選んだわけではないが、第二十回、第三十回の山本周五郎賞(それぞれ「夜は…」と「明るい夜に…」)を紹介して、なかなか山本周五郎に縁のある書評になった。山本周五郎といえば「赤ひげ診療譚」などの時代小説を著したことで有名だが、文壇や文芸賞を嫌い、今に至るまで唯一直木三十五賞を辞退した人物として知られている。そんな山本周五郎に名を借りて賞を作るとはなかなか面白いではないか。また、山本は本名を清水三十六(さとむ)と言って、三十五より一だけ多いのは偶然ながら面白い事実だ。明治三十六年生まれだからついた名前だそう。一方の直木は本名を植村宗一というのだが、「植」を分解して直木、年齢に合わせて三十一、三十二と変えながらペンネームを使っていたらしい。三十三では縁起が悪いから二年後に改めたとか、三十五歳のときに諫められて変更を止めたとか、「三十六計逃げるに如かず」になりたくなかったとか、どれが正しいのかは不明だが、なかなか面白いエピソードもある。文学者のエピソードを辿ってみるのもまた一興だ。